「親鸞会は、宿善として自力諸善を積むように勧めているが、当流では他力の信心を獲るために、まず自力諸善を積まねばならないなどという説示はない」(回答書(A)P・142)
「高森親鸞会では、未信の者は、信心決定をめざして、今生において、善根を積み、宿善を厚くせよ、と勧める」
と、いやに力説なさる。
「諸善さえやれば、信心決定できる。まず、自力で善を励め」
これが親鸞会の主張だ≠ニ、印象づけたい思惑が、みえみえである。
しかし、真実の歪曲は、許すわけにはゆかない。
どこをどう、本願寺がネジ曲げているか≠指摘する前に、親鸞会の主張を、ここで明示しておく必要がある、と思われる。
首尾一貫、宿善について、親鸞会は次のように説き続けてきた。
言うまでもなく、仏法求める目的は唯一つ、後生の一大事の解決、以外にない。
「一向専念の義は、往生の肝腑、自宗の骨目なり」(御伝鈔)
しかも、親鸞聖人のご金言通り、生死の一大事の解決は、阿弥陀仏しかできないことなのだ。
その、阿弥陀仏の救済に絶対不可欠のもの、それが、宿善なのである。
このことは『慕帰絵詞』にも出ているし、宿善往生を唱えた覚恵法師と、信心往生を立てられた如信上人との、諍論によっても明らかだ。
お聖教の明文も、歴々として指し示す。
「十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くが如く、過去の宿善厚き者は今生にこの教に値うてまさに信楽す、宿福なき者はこの教に遇ふといへども、念持せざればまた遇はざるが如し。『欲知過去因』の文の如く、今生の有様にて宿善の有無あきらかに知りぬべし」(口伝鈔)
「弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし」(4帖1通)
「無宿善の機に至りては力及ばず」(4帖8通)
「いづれの経釈に依るとも、既に宿善に限れりと見えたり」(3帖12通)
ご臨末には、
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思ひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐の心暫くも止むことなし」(4帖15通)