さて次に、
「仏法は聴聞に極まる」
なら、親鸞会はなぜ、諸善も勧めるのか、の疑問に答えておかねばならぬ。
いかに真剣に勧められても、我々の聞法はお粗末至極≠フ一語に尽きよう。
大体、浄土真宗の道俗は、生まれおちるより、他力じゃ、易行の法じゃ、無条件の救済じゃ、ただじゃ、そのままじゃ、と、無責任説教を聞かされているから、仏法をバカにして、初めから易しいものと目安をつけ、見くびっている者が多い。
証拠には、少し聞くと「ああ、分かった」と早合点し、他人を見下して、こう言うのだ。
「同じことを何遍きいても分からん、バカな奴らじゃ」
そうかと思うと、「これだけ聞いてもまだ分からん」と、焦りたったり、腹をたてたり、はては、法が悪いのではなかろうかと、法謗の大罪をつくって平気でいる。
これだけ≠ニは、一体、どれだけか。
1カ月に、1日や2日聴聞したって、1年に、どれ程になるのだろう。
その1日といっても、2時間か、3時間。早朝から、くだらん欲に、引きずり廻されたクタクタの心身を、法座に運んで、カスの時間と、カスの心身で、一体なにを、聞こうとしているのか。
どんなことが解決できる、というのだろう。
多忙で、仏法聞けぬ≠ニいう。
それほど平生、時間を大切に使ってのことなのか、と反省する。
そのくせ、テレビの前に坐っている時間は、いくらでもあるようだ。
つまらぬ話でつぶす時間があっても、仏法聞くヒマはないという。
「徒らに、すぐる月日は、多けれど、法を求むる、時ぞ少なき」
そのものズバリであろう。縁なき衆生、といわれても仕方あるまい。