阿弥陀仏の大慈悲心に、へだて心があろうはずはないが、我々の救い(信心獲得)に前後ができるのは、いつに、宿善の厚薄によるのだ。
「陽気・陰気とてあり。されば、陽気をうくる花は、早く開くなり。陰気とて、日陰の花は、遅く咲くなり。かように、宿善も遅速あり。されば、已・今・当の往生あり。弥陀の光明に遇いて、早く開くる、人もあり、遅く開くる人もあり。兎に角に、信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞すべきなり」(御一代記聞書)
蓮如上人のご教示にも、それは明快である。
阿弥陀仏の本願は、十方衆生を平等に救いとると誓う、無上の尊法である。にもかかわらず、我々の救い(信心獲得)に前後ができるのは、ひとえに、各自の、宿善の厚薄による、ことを明らかにした。
宿善の厚い頓機は、はやく救われる(信心獲得)からよかろうが、宿善の薄き漸機は、どうすればよいのか。
これこそが、宿善問題の、最要課題であろう。
しかも、宿善厚き頓機は極めて少なく、宿善薄き漸機は圧倒的に多いのだ。
記録に残っているものから、窺っても、法然上人のお弟子、380余人中、頓機は、親鸞聖人と蓮生房、耳四郎の3人のみ。
聖人の門下では、明法房弁円、ただ、1人である。
その外にもあったであろうが、甚だ少なかったから、法然上人は『和語灯録』に、
「頓機の者は少なく、漸機の者多し」
と、仰せられている。
もし、宿善は過去世のことで、今生ではどうしようもないものならば、我々の救済の可否は、生まれた時、すでに決定していることになる。
これではまさに、仏教の排斥する宿作外道である。
宿善薄く生まれた者は、どうもがいても宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。
未来永劫、救われないことになる。
ならば、親鸞聖人や蓮如上人の
「一日も片時も、信心獲得を急げ」
のおすすめは、なんの意味もない。
宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善まかせの信心獲得は、できっこないのだから。
断じて宿善は、どうにもならないものではないのである。
宿善薄く生まれた者でも、宿善厚き人になれるし、やがては、宿善開発まで進めることは、言をまたない。
でなければ、善知識方がひたすら、宿善開発(信心獲得)を急げとすすめられるはずがない。