「善さえ励めば獲信できる」これが親鸞会の主張だ
こんな本願寺の中傷を縁として、親鸞会は、聞法に勝る獲信の因縁(宿善)のないことを開顕し、仏法は聴聞に極まる≠アとを力説してきた。
聴聞(聞法)の重要性には、本願寺も異存がないらしい。
「すべて他力になさしめられる」、という、かねての主張をかなぐり捨てて、こう仰有っているからだ。
「聞法(聴聞)を勧めることが間違いである等とは、私はどこにもいっていない(回答書(B) P・18)
「聴聞については『聞其名号信心歓喜』の法であるから、已信・未信を問わず、みずから聞法につとめると共に、他の人たちにも聞法を勧めねばならないことはいうまでもない」(回答書(A) P・145)
まこと、そうあってほしいもの。
いくら本願寺でも、聞法と獲信の関係を断ち切れば崩壊することぐらいは、ご存知のようだ。
「聞法を勧めねばならないことは、いうまでもない」と、珍しくも断言なさっている。 ついでに、
大いに、すすめねばならぬワケ≠烽ォきたいものだが、とにもかくにも、聞法が獲信の因縁(宿善)になることを、タテマエだけでも、本願寺が認めたことはおめでたい。
ところが、余りハッキリ容認すると、親鸞会非難の根拠を失うとでも思ってか、本願寺サン、おかしな弁明をなさっている。
「しかし、今生において聴聞に励むことは、どれほど懸命に努め励んでも、それはあくまで、救いの法をお聞かせいただくのであってこれを自力の善根を修するとか、宿善を積むなどとはいわないのである」(回答書(A) P・145)
おかしいというのは外でもない。
ここで本願寺の、
宿善をつむといわない
ということが、
聞法は獲信の因縁(宿善)とはならない
ということならば、すでに、
「救いの法をお聞かせいただく聞法」
が獲信の因縁(宿善)になると、ちゃんと認めていることと、矛盾するからである。
なんのことはない。
聞法は獲信の因縁(宿善)とハッキリ認めては、親鸞会攻撃の足場がなくなる。
なんとかボカすための弁明と、カングルほかない。
それとも言わないだけ≠ニでも、いうのであろうか。
いずれにしても聞法は、正真正銘、宿善の物体だから、本願寺でも否定のしようがないのだ。
シブシブながらも大いに、聞法はすすめている≠ニ、言わざるを得なかった、というのが真相だろう。
シブシブ発言を裏づける、事例の一つをあげておこう。
聴聞を勧めねばならぬのは、いうまでもない≠ニ胸張られる本願寺さんに、聴聞専用バスの走っているウワサは、寡聞にしてきかない。
親鸞会の聴聞バスはフル回転で、いくら増車しても追いつかず、関係者は嬉しい悲鳴をあげている。
門外漢でも眼を見張るこんな明らかな事実にも、あえて目をつむる本願寺サン。
「親鸞会は、善さえつめば獲信できるとすすめる邪義」と非難なさる。
保身の為とあらば、シロを平気でクロと断言してはばからない、したたかさに溢れている。
こんな本願寺を相手に真実開顕するには、こちらも5年・10年、じっくり腰をおろす必要性を改めて痛感させられる。