蓮如上人も『御一代記聞書』に、
「至りて堅きは石なり、至りて軟なるは水なり、水よく石を穿つ。『心源もし徹しなば、菩提の覚道、何事か成ぜざらん』といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、お慈悲にて候間、信を獲べきなり。ただ、仏法は聴聞に極まることなり」
また、
「陽気・陰気とてあり、されば、陽気をうくる花は早く開くなり、陰気とて、日陰の花は遅く咲くなり。
かように宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり。
弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。兎に角に信・不信ともに、仏法を心に入れて聴聞すべきなり」
とも教えられている。
不断に聞法精進する人は、陽気をうける花の如く早く宿善開発し、救われる(信心獲得)が、聞法を怠る者は、日陰の花のように、宿善開発の開花が遅れる。
「火の中を、分けても法は、きくべきに、雨風雪は、もののかずかは」
きびしい蓮如上人の教誡は、そのためである。
善導大師は『観経疏』に、
「過去已曽、修習此法、今得重聞、即生歓喜」
と説き、
過去世で、この法を聞いてきた人が、今生で、重ねて聴聞することによって信心獲得できるのだ
と、聞法即宿善を明らかにされている。
以上のご教示で、真剣な聞法に勝る宿善開発(信心獲得)の、ご縁はないことが分かる。