『こんなことが知りたい』(1)(P・116)
「自力間に合わなかったと、助かる望みが断ち切られて、無間のドン底へ叩きおとされた時、十劫以来、呼び続けて下されていた、阿弥陀仏のみ声が、五臓六腑を貫くのです。
『ただのただもいらんただであったか、他力とは、こんな楽な世界とは、知らなんだ、知らなんだ』
と、おどり上がるのです。
自力一杯、求めたことのない者に、自力無功と知らされる筈がありません。
どうにもなれない自分だと、頭で合点しているのと、
自力、間に合わなかったと知らされて、地獄へ叩きおとされたのとは、天地の違いがあります。
自力無功を体験しない者に、自力が廃ったということがありましょうか。
自力が廃った、一念の体験のない者に、他力にまかせ切った妙味など、分かる筈がありません」
『顕正新聞』(178号)(昭和53年3月20日発行、「二種深信」を述べたところに)
「信じたのも知ったのも、学問も修養もすべて間に合わず、堕ちるも助かるも分からぬ心一つが、業に引かされて、地獄は一定すみかぞかしと、無間のドン底に叩き堕とされた時、(機の深信)
自力無功と、他力不思議とは、同時に働き、信心歓喜、歓喜踊躍と、おどり上がり、
阿弥陀さま、こうまでして下さらなければ、聞かない、渋太い私でございました(法の深信)
どうして、この御恩に報いようかと、泣くより外にないのです。
このように、堕ちるに間違いなし、助かるに間違いなしと、機、法、共に、ツユチリ程の疑心もなくなったのを、二種深信というのです。
しかも、この二種深信は、堕ちるままのただじゃったと、弥陀と一体になった一念に同時に体験され、念々に相続致しますから、二種一具の深信といいます。