親鸞聖人も、体験を通して、
「いずれの行も、及び難き身……」(歎異鈔)
「大菩提心おこせども、自力かなはで流転せり」(正像末和讃)
「自力にては、生死をいでず」(御消息集)
と、自力無功を信知させられ、無条件に、他力に乗托されたのである。
命がけの聴聞も、破邪顕正も、自力の一切は、間に合わなかった、と、廃った一杯が本願力に間に合ったことに驚き呆れ、すべてが他力であったなあーと、不思議不思議と踊り上がったときを、宿善開発というのだ。
以下、お聖教の明証を、2、3、提示しておこう。
「一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常に能く善心を汚し、瞋憎の心常に能く法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふが如くすれども、衆て雑毒雑修の善と名け、亦、虚仮諂偽の行と名く。真実の業と名けざるなり。此の虚仮雑毒の善を以って無量光明土に生ぜんと欲す。此れ必ず不可なり」(教行信証信巻)
「本願他力をたのみて、自力を捨つるをいふなり。これを唯信といふ」(唯信鈔文意)
「今の真宗においては、専ら、自力をすてて、他力に帰するをもって宗の極致とする」(改邪鈔)
「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて、一心に阿弥陀如来、我等が今度の一大事の後生、御たすけさふらへとたのみまうしてさふらふ」(領解文)
かかる、親鸞聖人や、覚如上人、蓮如上人を一貫せる、自他力廃立の御教化によって救われ、その真実を開顕せん為に、死力を尽くしている親鸞会を、
「自力によって宿善開発(信心獲得)出来るといっている」
という本願寺の非難は、悪辣極まる中傷と断ぜさるを得ないのである。
体験の世界を、合点や知識で通ろうとするから、空中分解したり、カラ回りする。
一向に前進しないのは、そのため、と知ってほしいのだ。
因果の理法に狂いはない。やっただけのことは、必ず現われる。
修善をおろそかにしてはならない≠ニ主張する親鸞会を非難する本願寺は、果たして、仏教といえるかどうか。
しかも本願寺は、聞法も修善も、共に宿善の物体と説きながら、聞法のすすめはよいとするが、修善のすすめは間違い、と非難する。
この明らかな矛盾に、本願寺サン、いまだにお気づきにならないのは、不思議でさえある。