文証にいかにご執心か、よく分かる。文証でなんとか防ぎとめねば……の危機感も、ヒシヒシ感じとれる。
かくて、大上段に修善をすすめた文証など、あろうはずがない≠ニ、アッと驚くタメゴローならぬ、外道よりもあさましい放言をなさるのである。
しかも、ここだけは、どうだ≠ニ言わんばかりに自信に漲っている、かに見える。 どんなに強そうにみえても、自力の自信は所詮はもろいもの、証拠の一端を示しておこう。
もし仮りにイジワルがいて、修善を排斥された文証をあげよ≠ニでも反問したら、本願寺サン、どんな、文証をあげられるとでもいうのだろうか。
またしても、一撃でダウン。みっともないことになりはしないか。そんな文証こそ、絶対ありっこないのだから。
仏教で『七仏通戒偈』は、有名である。
すべての仏教に共通した教えを、一言で喝破しているからだ。
「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」
もろもろの悪をなすことなかれ、もろもろの善をなして、心を浄くせよ、これが諸仏の教えだ
というのである。
本願寺サン、『七仏通戒偈』もお忘れになったのか、と驚かされる。
修善が獲信の障害ならば、獲信が唯一の目的である仏教に、なぜかくも修善のすすめが説かれるものか。
修善をすすめた文証など、あろうはずがない≠ニ力む本願寺にそれでも汝は仏法者か≠ニいったら、失礼だろうか。