では弥陀が、十九に誓われた方便とは、どんなことであったのか。
自惚れ強く、そのうえ、相対の幸福しか知らない、我々にはじめから、絶対の幸福になるのだと言われても、猫に小判、所詮は、狂人のネゴトにしか聞こえぬに違いない。
まず、善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の法則から教え、悪果が嫌なら、悪を慎め、善果がほしくは善を励め、と、廃悪修善を指導する。
仏教の定規は、因果の道理。因果の理法は廃悪修善。その修善を実行さすのが、弥陀の十九の願である。
「真宗に善をすすめる文証などあろうはずがない」と、本願寺は胸張らるるけれども、木をみて森をみず、森をみて山を知らず、の類。仏教の山全体が、文証であることを知らないのだ。
それとも、仏教の定規を無視された親鸞聖人や蓮如上人とでも、いうのであろうか。
阿弥陀仏の本意から言えば、人間の善し悪しを超えた無碍の一道へ飛躍さす、のが目的ではあるけれど、どうしても、善悪二業の執着が離れ切れない我々だから、もっと前進させるために、善巧方便なさるのだ。
仏の正意がわからぬために方便(仮)は捨てもの≠ニ実行せず、合点だけで相済みにする本願寺。
「善をすすめた文証などあろうはずがない」と、仏意をじゅうりんしてはばからないからおそろしい。
因果は厳しく、結果を招く。
自己の善根を往生の助太刀にするから雑毒の善、虚仮の行と嫌われるのだが、善根そのものに変りはない。
実行しなければ、善果の現れぬは、当然である。
自惚れ強いのが、我々の自性。
オレは断じて、腑抜けでない、やろうと思えば、なんでもできる
と、みんな固く信じている。
それでは、どれだけできるか、やってみよ
と、試みに与えられたのが十九の願なのだ。
実行してみてわかるのは、三毒五欲の煩悩に狂わされている己れのお粗末。
他力の名号でなければいけない≠ニ、ようやく自覚せずにおれなくなる。
それが、名号に向いた二十願。ところが、名号宝珠は他力でも、心が晴れていないから、自力の臭みがなくならない。
どうすれば晴れるのか。どうなったら満足できるかと、前進せずにおれないままが、誘引されてる相である。
やがて、弥陀の狙いの十八願、無碍の一道まで誘導されるのだ。