十九願や観経の教説を、要門とか、仮門ということぐらいは、本願寺さんでもご承知のはず。
要の門、重要な門、必要な門、自力から他力に入るには要ず通らねばならぬ門、ということだ。
この門を通って目的の奥座敷(十八願・無碍の一道)に入りなさい、と教えるから仮門ともいう。
善のすすめは獲信の障害≠ニいう、本願寺の非難が正しければ、修善をすすめる十九願は、要門どころか障門となる。
定散二善、諸善万行をすすめた釈尊は法敵であり、
「往生浄土の方便の、善とならぬはなかりけり」
と教えられた親鸞聖人も、弥陀の怨敵となりはしないか。
本願寺の学者サン達。真仮の区別がつかなくなり、無信心の醜態をさらけだした、と考えるほかない。
本願寺がそれでも「善をすすめた文証など、あろうはずがない」と強弁したければ、「修善は獲信の因縁にならぬ」文証を提示してからに、されねばなるまい。
いずれにしても、今度の回答書で決定的にバクロされたのは、本願寺頭脳集団の無信心・無責任の実態であった、といって間違いなかろう。