では、どうすれば宿善は厚くなり、開発できるのか。手をこまねいて、宿善の厚くなるのを待てばよいのか。
宿善到来とか、時節到来というから、真宗の道俗は、宿善というものは向こうの方からヨチヨチやってきて、宿善開発できるように思っているが、大間違いだ。
丁度、金持ちになるには、福の神が来ればよい、と思って待っているのと同じで、バカげている。
福の神というものが、向こうからやってくるのでは、決してない。自己の日々の努力精進が、即ち福の神になるのである。
宿善というものも、待っていて厚くなるものでも開発するものでもない。心がけて、求めてゆくものなのだ。
求める人にのみ時節到来ということがある、と喝破された、蓮如上人のお言葉をあげておこう。
「『時節到来』という事、用心をもして、其の上に、事の出来候を『時節到来』とはいうべし。
無用心にて、事の出来候を『時節到来』とは、いわぬ事なり。
聴聞を心がけての上の『宿善、無宿善』とも、いう事なり。
ただ、信心は聞くにきわまる事なる由、仰せの由に候」(御一代記聞書)