西本願寺さんお答え下さい(返答待ち23年)

第2の非難 諸善は、獲信の因縁ならず
〜(2)宿善薄き者は、どうすればよいか〜

聞法にまさる、獲信の因縁なし

 では、どのように用心すれば、宿善到来するのか。

「信心は聞くにきわまる」

と仰せのように、聴聞を心がけるしかない。

 根拠は勿論、釈尊の『本願成就文』である。
阿弥陀仏の本願を説くことを、出世の本懐とされた釈尊が、その弥陀の救いの本意を、開顕されたのが『本願成就文』であることは、言うまでもない。
『成就文』に、釈尊は、

「聞其名号 信心歓喜」(その名号を聞くものを救いとる)

これが弥陀の誓いである≠ニ、道破されている。

「その名号」とは、仏法のすべてであるから、
「仏法は聴聞にきわまる」ことになる。
『大無量寿経』巻末にも、こう説かれている。


「仏、弥勒に語りたまはく、其れ彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍し乃至一念すること有らん。当に知るべし。此の人は大利を得と為す、則ち是れ無上の功徳を具足するなり」



 弥陀の救いは、聞に極まることは、歴然としている。
よって釈尊は次に、聞法の覚悟を説かれるのである。


「設ひ大火有りて、三千大千世界に充満せんに、要ず、当に、此を過ぎて是の経法を聞き、歓喜信楽し、受持読誦し、如説に修行すべし」


 親鸞聖人は、この仏意を、


「たとひ、大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり」(浄土和讃)


と述べ、真剣な聞法をすすめられる。

聞法に勝る、獲信の因縁なし(2)→





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