そして、上品上生から下品下生まで、九品の往生を説いて、どの善根ができるかな≠ニ心を覗く。
これもできない、これもできないと、実地に知らせて、最後に下品下生の私でございました≠ニ、真実の自己を照らし出す。
機の真実を説くと、だから、『観経』はいわれるのだ。
その上で下々品をお救い下さるのは、阿弥陀仏しかないぞ≠ニ教えられるのだから、邪見驕慢の極悪人が、弥陀の本願に救われる、善巧方便に違いない。
『観経』の、定散二善三福九品のみ教えも、本願寺サンには、善を廃し悪をすすめた文証としか見えないらしい。定散二善が、韋提希の獲信に無関係≠ニするならば、説かれた目的はなんのため≠ニ、反問したい。
因果の道理は宇宙の真理、善因善果、悪因悪果、自因自果には、寸分の狂いもない。
分かっただけでは、観念の遊戯に終り実行しなければ、善果は得られぬ。
善根を積む必要はない、修善をすすめるのは間違いだ≠ニいっているから、無宗教の家庭よりも、外道の者よりも、不幸は続くし、貧乏はする、病気にはなる、災難は重なる。
真宗の教えを聞いていない者の方が上等の生活をして、真宗の門徒が、この世の罹厄きわもなし≠ナ不可称、不可説、不可思議の苦毒≠ノ泣いているのだ。
普通の人でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに善根を修する必要がない≠ニ、平気で横着を教えているから、悪報は眼が廻るほどやってきて、業苦に責めたてられるのは理の当然である、ことにお気づきにならない。
それどころか、親鸞会の修善のすすめを非難なさっているのだから、評する言葉もあるまい。