西本願寺さんお答え下さい(返答待ち23年)

第2の非難―諸善は、獲信の因縁ならず―

(5)「十九願や定散二善は獲信の因縁」の根拠

「獲信の因縁に善をすすめる親鸞会は、間違いだ。
修善のいらぬ真宗に、善をすすめる文証など、あろうはずがない」
 耳目を疑う本願寺の非難に、文証あげて親鸞会は、次のように答えてきた。

汝は、修善をすすめる弥陀仏の、十九の願をお忘れか。
定散二善をすすめた観経の、釈迦の教説を知らざるや≠ニ。

 でなければ、本願寺サン。
弥陀の十九願や、定散二善は、獲信の因縁として説かれたもの≠ニ、まだご存知ない、としか考えられぬ。
十九の願や、定散二善は、獲信の因縁≠ニ、親鸞会は理解する。
 果たしてこれが、親鸞聖人や蓮如上人のご教示に叶っているかどうか、文証あげて開顕しよう。

親鸞聖人のご文証

親鸞聖人の特徴は≠ニ問われて、なんと答えるだろう。
 山上の仏教を山下の仏教に、貴族の仏教を庶民の仏教に、僧侶の仏教を在家の仏教に、禁欲主義の仏教を肉食妻帯の仏教にしたことか。

 いずれも、当たっている。がしかし、なんといっても特徴の中の特徴は、真仮の区別をハッキリさせ、自力の臭味を断切って、他力不思議を発揮されたことが第一であろう。
 親鸞聖人、畢生の大著、浄土真宗の根本聖典『教行信証』六巻をみれば、それは明白だ。
「教・行・信・証・真仏土」の五巻に真実(真)の仏教、後の「化土」巻に方便(仮)の仏教を開顕し、仮より真に入れよが、親鸞聖人の生命になっている。

「然るに、願海に就きて、真あり仮あり─乃至─既に以って、真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり―乃至―真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(真仏土巻)

「願海に、真あり仮あり」

 まず、阿弥陀仏の本願に、真実(真)と方便(仮)のあることを判定し、十八願を真実、十九・二十の二願を方便と断定される。
 真実とは、本心のこと。
 十八願には、弥陀の本心(どんな人をも、必ず絶対の幸福に救いとる)が、誓われているから、真実といわれる。
 方便は、方法便宜の省略で、目的を果たす方法手段をいう。

「十九・二十の二願は、弥陀が目的(十八願)を果たす、方法手段に誓われたもの。
 従って、三願は、無関係に孤立したものではない」

 これが、親鸞聖人の見解であり、宣言である。
二つ三つ、その文証をあげておこう。
 中でも、鮮やかで有名なのは、聖人の告白である、三願転入のご文であろう。


「ここをもって愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく、万行諸善の仮門(十九願)を出でて、永く雙樹林下の往生を離れ、善本徳本の真門(二十願)に廻入して、偏に、難思往生の心を発しき。
 然るに今、特に、方便の真門(二十願)を出でて、選択の願海(十八願)に転入し、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、良に由あるかな。 ここに久しく願海(十八願)に入りて、深く仏恩を知れり。
 至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を◎うて、つねに不可思議の徳海を称念す。いよいよ斯を喜愛し、特に斯を頂戴するなり」(教行信証)

 要旨をいうと、こうなる。

幸いにも、親鸞は、善知識方のお導きによって、十九願から二十願に入り、今、それらの方便から、十八願、真実へ転入した。
 方便から真実に入って、はじめて、阿弥陀仏の大恩が、知らされたのである



三願転入は、十方衆生の獲信の道程→





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