もちろんこれは、親鸞聖人だけのことではない。
「至心信楽欲生と
十方諸有をすすめてぞ
不思議の誓願あらわして
真実報土の因とする」(第十八願)
「至心発願欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門をひらきてぞ
現其人前と願じける」(第十九願)
「至心廻向欲生と
十方衆生を方便し
名号の真門ひらきてぞ
不果遂者と願じける」(第二十願) (浄土和讃)
十九・二十の方便二願は、真実、十八願に転入する十方衆生の道程と、見ておられることがよくわかる。
このことは『三経往生文類』にもみえるが、いまは『愚禿鈔』の文をあげておく。
「ひそかに観経(十九願)の三心往生を按ずれば、これすなはち、諸機自力各別の三心なり。大経(十八願)の三信に帰せんがためなり」
「万行諸善の小路(十九願)より
本願一実の大道(十八願)に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなわちひらくなり」(高僧和讃)
誰もが、意識するとしないとにかかわらず、方便(仮)の道程を通らなければ、真実(真)の絶対界には出れないのだ。
方便(仮)を通らずに、真実(真)が、どうして真実と知れようか。
真実を、真実と知らすための、方便なのだから。
なればこそ、弥陀の本願から釈尊の説法、七高僧の教説は、悉く、方便と真実を比較して説かれ、方便より真実に入れよ≠ニの、教えなのである。
その方便(仮)を知らないのは、真実(真)もわかっていない証拠、と結論づけられる。
「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」(真仏土巻)
親鸞聖人が、キッパリとこう仰有るのも、当然なのだ。