西本願寺さんお答え下さい(返答待ち23年)

第2の非難 諸善は、獲信の因縁ならず
〜(5)「十九願や定散二善は獲信の因縁」の根拠〜

「獲信の因縁とならぬ諸善」はない

『観経』の、韋提希夫人はどうあったか、だけでも知るならば、その偏見がわかるはず。
 釈尊による、十九の願の開説が『観無量寿経』であるからだ。

「浄土へゆきたくは定善をせよ」。まず、定善十三観が説かれている。
頭から極悪人になにできる≠ニ叱っては、ハラをたてて聞かぬから、はじめは善人扱いなさるのだ。

お前は定善できるかい≠ニ、韋提のハラを照らしながら、慎重に心を覗かれる。
 釈尊の説法を聞きながらも、あんな阿闍世を育てるでなかった、提婆奴が、そそのかしさえしなかったら、と、心の中では惨殺している。

これでは、定善できる柄でない≠ニ、反省せずにおれなくなる。
定善ができねば、散善を≠ニ、九品を並べてみせられる。

 誰よりも可愛いはずの吾子でさえも、心の中で殺している。親など殺すは朝飯前。
 上品上生はとてもじゃないが、中品下生の孝養父母さえおぼつかない。
 定善散善ともに落第。箸にも棒にもかからない、下品下生の極悪人と照らしだし、弥陀の救いに遇わすのが『観経』一部の教説である。

 以下は、親鸞聖人のご文証。


 臨終現前の願により(第十九願)
 釈迦は諸善をことごとく
 観経一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり


 諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり(浄土和讃)


 仏教で修善をすすめるのは獲信の方便(因縁)に、ほかならない。
獲信の因縁にならぬ諸善はなかりけり
 親鸞聖人の、ご金言である。
 なのに本願寺は、獲信の因縁にならぬ、として、修善のすすめを非難するのだ。



あわれ、真仮の区別のつかぬ者→





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