『観経』の、韋提希夫人はどうあったか、だけでも知るならば、その偏見がわかるはず。
釈尊による、十九の願の開説が『観無量寿経』であるからだ。
「浄土へゆきたくは定善をせよ」。まず、定善十三観が説かれている。
頭から極悪人になにできる≠ニ叱っては、ハラをたてて聞かぬから、はじめは善人扱いなさるのだ。
お前は定善できるかい≠ニ、韋提のハラを照らしながら、慎重に心を覗かれる。
釈尊の説法を聞きながらも、あんな阿闍世を育てるでなかった、提婆奴が、そそのかしさえしなかったら、と、心の中では惨殺している。
これでは、定善できる柄でない≠ニ、反省せずにおれなくなる。
定善ができねば、散善を≠ニ、九品を並べてみせられる。
誰よりも可愛いはずの吾子でさえも、心の中で殺している。親など殺すは朝飯前。
上品上生はとてもじゃないが、中品下生の孝養父母さえおぼつかない。
定善散善ともに落第。箸にも棒にもかからない、下品下生の極悪人と照らしだし、弥陀の救いに遇わすのが『観経』一部の教説である。
以下は、親鸞聖人のご文証。
臨終現前の願により(第十九願)
釈迦は諸善をことごとく
観経一部にあらわして
定散諸機をすすめけり
諸善万行ことごとく
至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり(浄土和讃)
仏教で修善をすすめるのは獲信の方便(因縁)に、ほかならない。
獲信の因縁にならぬ諸善はなかりけり
親鸞聖人の、ご金言である。
なのに本願寺は、獲信の因縁にならぬ、として、修善のすすめを非難するのだ。